みなさんは、カンボジアで約40年前に大量虐殺が行われていた過去があることをご存じでしょうか。
その当時の影響は現在でも受けており、教師の不足や撤去されずに残された多くの地雷、両親を失い心に傷を負っている人たちも多いんです。
カンボジアの歴史を知ると「人間はこんなにも恐ろしくなれる残酷な生き物なのか」と感じずにはいられません。
カンボジアの歴史を書いていく上で、正直どこから書いていけばいいのか難しいところもありましたが、個人的には3つの大きな出来事がカンボジアの歴史を大きく変えるきっかけになったのではないかと考えています。
- ベトナム戦争
- ロン・ノル政権によるクーデター
- ポル・ポト政権の誕生
今回は、この3つの出来事からカンボジアの歴史を見ていきたいと思います。
カンボジアの歴史年表まとめ
カンボジアの歴史を簡単に年表にまとめてみました。全てを書くと大変なことになってしまうので、重要な所だけをまとめています。
ポル・ポト政権幹部として、よく本や記事などで名前が出るのが以下の5人。
- ポル・ポト
- ヌオン・チア(ポル・ポト派ナンバー2)
- イエン・サリ(ポル・ポトの義弟)
- キュー・サムファン(元国家幹部会議長)
- ヌオン・シクーン(元ポル・ポト政権外務省幹部)
1925年1月:サロト・サル(後のポル・ポト)生まれる。
1949年9月:サロト・サルのパリ留学が始まる。
1950~51年:イエン・サリらがパリ留学を開始。
1951年9月:カンボジアでクメール人民革命党が結成される。
1953年1月:サロト・サル帰国。人民革命党に入り、年半ばから東部のジャングルの拠点で秘密党活動に従事。
1953年11月:シアヌーク国王、カンボジアの完全独立を達成。
1970年3月:ロン・ノル首相によるクーデターで、外国旅行中のシアヌーク国家元首が追放される。シアヌーク殿下は中国などの勧めでカンボジア「解放勢力」と統一戦線を組み、王国民族連合政府を樹立して内戦に突入。
1973年1月:べトナム和平パリ協定調印。
1975年4月:クメール・ルージュがプノンペンを陥落させ内戦に勝つ。鎖国状態の国の中で、都市住民の強制移住や旧ロン・ノル政権関係者の虐殺などの暗黒政治が始まった。
1975年9月:革命政権の治安警察サンテバル(S21)がスタートする。
1976年4月:シアヌークが名ばかりの国家元首を辞任する。ポル・ポトが首相に就任。
1977年12月:ポル・ポト政権、ベトナムとの断交を発表。その後、国境地帯での戦闘が断続的に続く。
1979年1月:ベトナム軍の侵攻でプノンペン陥落。ポル・ポト政権指導者たちは、ふたたびジャングルに潜り抵抗運動に入った。プノンペンには親ベトナムのカンボジア人民共和国(ヘン・サムリン政権)が樹立される。
1979年8月:ヘン・サムリン政権が、ポル・ポトとイエン・サリを即席欠席裁判にかけ、虐殺の罪で死刑を宣告。
1991年10月:ポル・ポト派を含む4派と関係18ヵ国がパリで和平協定に調印。
1993年9月:シアヌークを国王とするカンボジア王国が発足。ポル・ポト派はその後非合法化される。
1998年4月:ポル・ポトが死亡する。
※引用元書籍:「ポル・ポト<革命>史~虐殺と破壊の四年間」
ベトナム戦争の開始
ベトナム戦争は宣戦布告が行われなかったために、開戦から終戦の時期に関してさまざまな諸説がありますが、一般的には1955年~1975年4月30日だと言われています。
北ベトナムとフランス軍との間で起きた第一次インドシナ戦争を終結するために、1954年にスイスのジュネーブで開かれた和平会談によって、ジュネーブ協定と呼ばれる休戦協定が合意されました。
合意内容には停戦・停戦監視団の派遣やインドシナ諸国(ベトナム・ラオス・カンボジア)の独立などがありましたが、その中の一つにベトナムを17度線で南北に分断し、自由選挙を行い南北統一を図るということも含まれていました。しかし、南北統一選挙が実現しなかったことからベトナム統一をめぐってベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)が競い合い、ベトナム戦争へと発展していきます。
北ベトナムをソ連・中国が支援し、アジアにおける共産主義拡大を恐れたアメリカは南ベトナムを支援。
やがて、南ベトナム側で「自分たちで新しい国を作ってしまおう!」「南ベトナム政権を倒そう!」という動きが強まり、南ベトナム民族解放戦線(反政府ゲリラ)が結成され南ベトナムと戦い始めるのです。北ベトナムとしては、南ベトナムを倒そうとしてくれている南ベトナム民族解放戦線をどうにか支援したい。しかし、北ベトナムと南ベトナムの間にはジュネーヴ協定(休戦協定)で合意された北緯17度線(軍事境界線)が設定されていました。
簡単に言うと非武装地帯です。
ここは非常に厳重に警戒されていたらしく、とても正面から支援をすることができないと考えた北ベトナムは、ホーチミンルートという補給路を通して南ベトナム側へ物資を運ぶことにします。
補給物資を運ぶ際に利用されたホーチミンルート
参照:http://fuwakukai12.a.la9.jp/Cambodia/yamamoto/yama01.htm
北ベトナム側から南ベトナム民族解放戦線へ、武器・食料などの補給物資を運ぶ際に利用していたのがホーチミンルート。
このルートの何が問題だったかというと、ラオス領・カンボジア領を無断で通っていたということ。もちろんラオス、カンボジア両国は自分の国を通っていることは知っていましたが黙認。
当時のカンボジアトップであるシアヌーク殿下は、どうにかベトナム戦争で自分の国を巻き込みたくはないと考え、ベトナム戦争に対してカンボジアは「北・南どちらの味方でもありませんよ!」という中立政策をとっていました。
ベトナム戦争で北ベトナムの勝利を予想していたシアヌークは、その勝利によって勢力を増した共産主義がカンボジア領土を犯すことを恐れていたのです。そこで「カンボジア国内における北ベトナム軍の活動を許す代わりに、終戦後カンボジアには決して手を出さないで下さいね」と北ベトナムと秘密協定を結びました。
その秘密協定こそが、のちにアメリカを怒らせることとなるのです。
カンボジアに対して良く思っていなかったアメリカ
南ベトナムを支援するアメリカからしたら、南ベトナム民族解放戦線へ物資を送るホーチミンルートが気に入らないわけです。
このルートを無くすためにラオスやカンボジアを爆撃したりもしますが、なかなか補給路は断たれない。しかも、カンボジアは北ベトナム軍が自分の国に駐留することを黙認している。アメリカからしたら「なんでカンボジアは黙認して何も言わないんだ!」と思うわけです。
そこで、アメリカは自分たちの思い通りになりそうな人をカンボジアのトップにしようと動き出し、親米派だったロン・ノル政権を支援。シアヌークが海外へ旅行している間にクーデターを起こさせたのでした。
ロン・ノル政権によるクーデター
参照:http://moogry.com/index.php?req=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%AB
1970年3月にロン・ノル首相によるクーデターがカンボジア国内で起きました。ロン・ノル政権はアメリカにとって都合のいい戦争方針を打ち出し、カンボジア国内の北ベトナム軍や解放戦線に対して攻撃を仕掛けます。
ついに、ベトナム戦争と同時にカンボジア国内でも戦争が始まってしまうのでした。カンボジア内戦によって約50万人が亡くなったと言われています。
国を追われたシアヌークとロン・ノル政権の崩壊
一方国を追われ北京に逃げていたシアヌークですが、ロン・ノル政権のクーデターを黙ってみているわけではありませんでした。
シアヌークはロン・ノル政権とアメリカを倒すために、カンボジアの共産主義勢力であるクメール・ルージュ(ポル・ポト派)と手を組み、カンプチア民族統一戦線を結成します。
ただ、シアヌークはカンボジアに帰国することはなく、実際にカンボジア国内で活動していたのはクメール・ルージュのトップであるポル・ポトでした。彼こそのちにカンボジアで残酷な政治を行っていく人物です。
1番左上の男性がポル・ポト。その下はトゥールスレン強制収容所の所長カン・ケク・イウ(ドッチ)という人物。
ポル・ポト(本名はサロト・サル)率いるクメール・ルージュはどんどん勢力を増していき、カンボジアの内戦はますます激化していきます。
1975年のアメリカ軍撤退を機にロン・ノル政権は徐々に崩壊し、1975年4月にクメール・ルージュはついに首都プノンペンへの攻撃を開始。アメリカの後ろ盾を失ったロン・ノル政権は成す術もなく崩壊。1975年4月17日ロン・ノル政府軍が完全降伏したことで、カンボジアの内戦は終わりました。
ロン・ノルはアメリカへと脱出し、カンボジア全土はクメール・ルージュのものとなったのでした。
内戦が終わりカンボジアに帰国したシアヌークでしたが、もはや力関係ではポル・ポトの方が上。殺されはしなかったものの、プノンペンの王宮構内で軟禁されることとなります。
ポル・ポト政権の残酷な政治
ロン・ノル政権が崩壊し、「これでやっとカンボジアに平和が訪れる!」「新しい政権に期待しよう!」と国民は思っていたはず。しかし、そんな国民の思いは一瞬で崩れ去ってしまいます。
なぜなら、カンボジアに平和が訪れることはなかったからです。
ポル・ポト政権が実現しようとした社会は原始共産制というもの。これはあくまで考え方で、実際にそんな社会があったのかは不明なのですが、生産性の低い原始時代にはみんな平等な社会が存在したという考え方です。
「食べ物はみんなで作って、みんなで分けよう!」「階級なんて必要ないよ!みんな平等でいこう!」。
そんな理想の世界を実現させるために、ポル・ポトは以下のポイントに沿って政治を進めていくこととなります。
- 肉体労働を通して再教育
- 旧体制に通じた人間を分散させその復活を妨げる
ポル・ポト政権がまず行ったことは、ロン・ノル政権につながる人を全員処刑すること。そして、約300万人にも及ぶプノンペン市民全員を都市から追い出し、地方の農村へと歩いて移動させました。
急に地方の農村に強制移住しろと言われても都市には高齢者や病人、幼い子どもなど、さまざまな人がいるわけです。もちろん移動できない人や反対する人たちが出てくるわけですが、そういった人たちは容赦なく殺していきました。強制移住させられた人は家を失い、家族とも引き離されたのです。
こうしてプノンペンは一夜のうちにゴーストタウンとなりました。
ポル・ポトが行ったことはこれだけではなく、知識のある者は自分たちだけでいいと学校の先生などの知識人を全員殺し、眼鏡をかけていた人も知識人と判断され殺されたそうです。海外留学中のカンボジア人にも嘘の理由をつけてカンボジアへと呼び戻し殺していきます。
みんなで働いてみんなで食べ物を分けるんだから、お金なんていらないと貨幣を廃止。さらには学校や病院、宗教も廃止や禁止としました。
カンボジア国民の多くは仏教徒でしたが、多くのお寺を破壊しお坊さんも殺しました。5歳になると親から子どもを引き離し、共産主義の思想を埋め込みポル・ポト政権の言うことだけを聞くように育てました。そうして洗脳した子ども達を子ども兵士としてさまざまな場所で使っていきます。
詳しい犠牲者の人数は分かっていませんが、ポル・ポト政権の大量虐殺によって約300万人が犠牲になったと言われています。
トゥール・スレン博物館とキリング・フィールド
トゥール・スレン博物館
多くの罪のない人たちが連れてこられたのが、プノンペンにある「トゥール・スレン強制収容所」という場所。
ポル・ポト政権に対して不満を言った者や反抗した者、嘘の容疑を着せられた者など、とにかく多くの人が連れてこられ尋問・拷問がこの場所で行われていました。
この施設には、当時実際に尋問・拷問で使用されていた道具やこの施設で犠牲になった人たちの写真が展示されています。元々は学校として使われていた建物なので、その当時の面影がところどころで確認できます。
キリング・フィールド
トゥール・スレン強制収容所内で処刑が行われることもあったそうですが、ほとんどの人たちはこの「キリング・フィールド」と呼ばれる場所に連れてこられ処刑されました。
キリング・フィールドはカンボジア内に300ヵ所以上確認されており、最も有名なのはガイドブックなどにも掲載されているチュンエクにあるキリング・フィールドです。
ベトナムのカンボジアへの進行
1977年半ば頃からベトナムに対して軍事攻撃をするようになったカンボジアに対して、ベトナムはポル・ポト政権を倒すために元ポル・ポト派のヘン・サムリンという人物を支援します。
べトナム軍は、カンボジアに侵攻して初めてカンボジアの現状を知ることとなりました。カンボジアは死臭にみち、想像を絶する状況だったと言われています。
10万人を超えるベトナム軍になすすべもないカンボジア軍。1979年にはベトナム軍がプノンペンを制圧し、ヘン・サムリン政権がカンボジアを治めます。ポル・ポトとクメール・ルージュはタイ国境付近のジャングルに逃げ込み抵抗運動に入ったのでした。
しばらく抵抗運動を続けていたポル・ポト派でしたが、ソン・セン元首相とその一族を皆殺しにする事件を起こしポル・ポトは逮捕され、ポル・ポト派拠点のジャングル内で裁判が行われ終身刑が言い渡されました。
ポル・ポトの死
裁判で終身刑を言い渡されたポル・ポトは軟禁されていましたが、1998年4月ポル・ポトは心臓発作で亡くなります。
ポル・ポトの死には他殺だったなどの意見もありますが、詳しい検死を受けることなく死の翌日に火葬されたため、実際の死因は今も謎のままとなっています。
カンボジアの歴史を振り返って
なるべく分かりやすく説明するために省いてしまった部分もありますが、これがカンボジアが歩んできた歴史です。
平和な時代に生まれた僕らには想像もできないことかもしれません。しかし、世界には今この瞬間にも戦争によって多くの命が奪われています。
一体いつになったら世界に平和が訪れるのでしょうか。
過去に起こしてしまった過ちから何も学ばなければ、同じ過ちをまた繰り返してしまうだけです。1人1人が悲惨な出来事に向き合うことで、少しずつ世界は変わっていくのかもしれません。
なぜ、ポル・ポト政権は生まれてしまったのか?について詳しく書かれた「ポル・ポト<革命>史~虐殺と破壊の4年間~」。
ポル・ポト体制のカンボジアを奇跡的に生き延び、クメール・ルージュの体験を映像化してきた映画作家が、手練れの作家の助けを得て、初めて自らの少年時代の記憶を語った「消去:虐殺を逃れた映画作家が語るクメール・ルージュの記憶と真実」。
という僕のおすすめの本が2冊あります!2冊ともカンボジアの歴史を詳しく知れる書籍となっているので、ぜひ購入して読んでみてください!
▼関連記事▼
